あっという間に5月は過ぎ去ってしまった。
人に与えられた時間は皆ひとしく24時間だというのに、
何もしていないのに時間だけが過ぎていく気がして
「私、何やっているんだろうな」と思ってしまう。
今日は1日。
1日、15日は神社に清掃に行っている。
先月はあんなにどんぐりの花が落ちていたのに、
今日は花どころか落ち葉もあまりない。
自分の感覚は、前回の清掃から1週間くらいなのに、
樹がきちんと月日が進んでいることを教えてくれる。
樹々が成長していく時期に変わったんのだ。
帰り道、自転車でいつもの道を走っていると、
ふわっと知っている香りが漂ってきた。
辺りを見回すと近くのお宅の庭先から漂ってきていた。
栗の木だ
栗の花は独特な香りがする。
正直、いい香りではない。
花だって花らしくないから、自分からわざわざ花見に行く
桜やバラなんかとは違って注目すらしない。
あの独特な香りは、
植物が生きていくために獲得した技なのだとは思うけど、
なんとなく「私も咲いているのよ」と
注目してもらいたくて身につけた香りのようにも思ってしまう。
ふと一つの和歌が思い浮かぶ。
色よりも 香こそあわれと 思ほゆれ 誰が袖ふれし 宿の梅ぞも
この和歌は古今和歌集に収められている、作者不詳の和歌。
お香の種類のひとつに「匂い袋」がある。
匂い袋のことを「誰が袖(たがそで)」とも呼んだりする。
それはこの和歌が下地になっているという。
Geminiさんに現代語訳をしてもらうと、こんな感じだ。
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短歌の意味と背景
【現代語訳】
目に見える(梅の)色よりも、漂ってくる香りにしみじみと心が惹かれる。
一体、誰の着物の袖が触れたのだろう、この庭の梅の木に。
昔の貴族たちは、お香の煙を衣服や髪に染み込ませる
「薫物(たきもの)」という文化を嗜んでいました。
一人ひとりが独自の調合を楽しんでいたため、
香りはその人の「名刺」や「面影」そのものだったのです。
この歌は、「庭の梅の香りを嗅いだ瞬間に、以前ここにやってきた『あの人』の
袖の香りを思い出し、胸をときめかせている」という、
非常にロマンチックで情趣あふれる情景を詠んでいます。
「誰が袖」が匂い袋の代名詞へ
この和歌から、
「姿は見えないけれど、素晴らしい香りでその人を思い起こさせるもの」の象徴として、
「誰が袖」という言葉が使われるようになりました。
やがて時代が下り、
お香を焚いて衣服に香りを移すだけでなく、
香原料を刻んで小さな袋に入れ、
袖の中などに忍ばせて持ち歩く「匂い袋」の文化が生まれると、
その雅な別名として「誰が袖」という言葉がそのまま定着していきました。
現代でも、老舗のお香専門店などで高級な匂い袋の商品名として大切に使われています。
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化学的な香りのない昔の日本では、草花の香りが心をときめかすものの代表だったと思う。
季節を感じるものであり、誰かの残り香であったり。
特に夜なんかは、本当に漆黒の闇だっただろうから、
暗闇から漂ってくる香りには、ただならぬものを感じていたに違いない。
栗の花だとあまりロマンティックな香りではないが(
むしろエロティックな気もする)、
それでも「こちらを見て!」を感じる花の香り。
私の記憶の中には、この栗の花の香りはプール開きと一緒になっている。
40年くらい昔だ。
とすると、もう2週間くらい花の時期が遅かった気がするのだが、
年々夏の訪れが早くなっているからなのだろうか、今年はすでにお目見えだ。
季節は真夏へと移ったのだろう。